平澤薫の自己紹介  …お堅いプロフィールはこちら



 

 

【建築設計から都市計画の道へ(〜30歳)】

 昭和22年3月、長野県に、男ばかり5人兄弟の4番目として生まれました。

 小学校低学年の頃。絵が好きだった私を見ながら、親戚と話していた父親がつぶやいた一言「設計士になったら良いかもしれない」というのが、その後の私の人生を決定づけたようです。

 その父も小学校5年の時に亡くなり、田舎のことでもあり、将来のことを教えてくれる人がいるわけでもありません。家族の経済生活は長兄が支えてくれていましたが、それ以上負担をさせるわけにはいきません。そんなことで、特に強い意識もないまま、とにかく国立大学、建築学科さえあれば良いというくらいの気持ちで、東北大学に入学。その後、専門課程も無事建築学科ということになりました。
 設計士になるつもりだった私は、最初は、「俺は、将来 『 建 築 家 』になるんだ!」という友人達の中でとまどったものです(^^;)。田舎者というもんですね。 しかしまあ、次第にそういう雰囲気にも慣れていったようです。

 「設計をやる人間は大学にいてはダメだ。早く就職しろ。」という、教授をはじめ研究室全体の雰囲気の中で、卒業後は、すぐに設計事務所に就職するつもりでいました。しかし、仙台にいて東京で仕事ができる可能性のある設計事務所は、当時では岡建築設計事務所(現岡設計)くらいしかなく、自然に就職先が決まったようなものでした。

 3月、そろそろ引っ越しの準備をはじめなければならない時期となり、いつ頃出社したら良いのか聞くために東京本社に出向いた私が聞いたのは、「君には仙台事務所に行ってもらおうと思う。」という副社長の言葉でした。
 東京しか頭になかった私は、「そうですかぁ。それならやめさせていただくしかありませんね。」と答えたものです。当時私が考えていたのは、「設計事務所ならどこでも良い」というもので、「東京にいるから意味がある」というくらいなものでした。

# 後になって、先輩からは、副社長が「そんなこと言うんだよなぁ。」とこぼしていたということを、聞きました。(^^;

 最初の1年は仕事を覚えるので無我夢中でしたが、それは楽しく充実した1年でした。

 そして入社2年目。まず千葉の小学校の設計をまかされました。それも楽しい仕事でした。

# 建築設計は、構造・設備その他技術者が支えてくれるのでそんなことが可能なのですが、それにしても、未熟な私にそんな仕事を任せてくれたのは、それなりに評価もしていただいていたのではないかとも思っています。

 そして、第2作目が家具店舗でした。しかし、この社長というのが全くのワンマン社長で、私のような若造の言うことなど聞く耳を持ちません。「とにかく俺の言うとおりに設計すれば良いんだ!」といった具合です。建築基準法など自分が裏から手を回しさえすればどうにもでなるというような言い方なのです。

 まだ若く、建築への熱い情熱を持っていた私は、そんな設計をするうちに建築に疑問を感じるようになりました。
 つまり、私は、より良い街をつくっていくためにこそ設計をするんだと思っていたのですが、建築行為がむしろそれを壊している可能性を感じ始めたのです。
 副社長に「こんな仕事はすべきじゃないんじゃないか!」などと訴えたこともありました。比較的自由にものが言えた会社でしたが、生意気な社員でもあったのかもしれません。

 そんな思いを抱きながら、しばらく悶々とした日々を過ごしていましたが、上司も、そんな私を見かねていたのかもしれません。その上司自身も会社を開く予定であり、「何らかの応援もできるかもしれない。だから、大学院へいってみたらどうか」とアドバイスしてくれました。「そうか、そういう選択もあったんだ。」と、改めて都市を学ぶことを決意しました。

 その後、その上司が開いた建築設計事務所でアルバイトをしながら10ヶ月程の浪人生活の結果、幸いなことに、東京大学大学院都市工学科へ入学が許されました。
 周囲はさすがに優秀な人間ばかりですので、もともと大学に残るつもりはなかったのですが、どうせ回り道をしたなら…と、修士・博士課程(単位取得・退学)を経て、(株)計画技術研究所に就職、都市計画を本業とすることになりました。

 

【都市計画事務所(30歳〜)】

 都市計画は、主に役所からの発注で、あらゆる街づくりの計画を立案していく仕事です。仕事の巾は広く、内容も時代によって変化していきます。そうした中で私は、幅広い視点を持って、可能な限り様々な街づくりに関わって行きたいと考えました。
 都市計画に情熱を持つ先輩・同僚に恵まれ、刺激的な環境でした。

 仕事は極めて忙しく、時間的な余裕は殆ど無かったのですが、自分の持てる能力を総動員していかなければならないこの仕事は、楽しんで取り組むことができ、またやりがいもあるもので、私にはまさにこの都市計画の仕事は「天職」に思われました。
 
仕事が難しければ難しいほど燃えるものを感じられるからでしょう。

 必要とされる資料やパソコンなど、モバイル環境を一式カバンの中に入れて持ち運ぶような仕事の仕方から「動く仕事場」とか「お道具マン」と呼ばれ、仕事への取組み方から「火の玉少年」なんて呼ばれたり、その後「火の玉中年」などと口の悪い先輩に呼ばれていたのはこの頃のことでした。

 3日間、家に帰らないまま、合計睡眠時間が9時間なんて生活もあたりまえの時代でした。

 

【会社設立(38歳〜)】

 就職した会社では将来独立していくことが求められていました。

 そのため、無理がきくうちにと、専門の異なる(総合企画・ソフトな仕組み・建築)3人の友人とともに今の会社を設立しました。
# その後、自立していくにつれて友人達とは別れることになりましたが、それはそれぞれにとって自然な流れでもあったようです。

 私自身は、どのように仕事を獲得していったらよいか、見通しも立たないままでの独立でしたが、それまでの私の仕事ぶりを評価してくれたところから、徐々に広がり仕事も何とか軌道に乗っていったようです。
 信頼してくれる相手に対して、楽しく、きちんとした仕事で応えようとしてきたことが良い循環を生んでいったように思います。

 これまでの業務実績に掲げているものは、独立後に実施してきた業務です。
 
小さな事務所にも拘わらず、随分とやりがいのある仕事を与えていただいたこと、大変感謝しています。

 このような仕事こそ、私にとって、都市計画を選択してきて良かったと思える仕事だったのです。
# 都市計画の分野でも、実態は様々専門分化されているのですが、私自身は、スペシャリストよりもジェネラリスト(私の定義では、幅広い視野を持ち、依頼された仕事の根幹的な目的を達成するため、多様な専門分野の人々をコーディネートして仕事をする人)を目指していました。
# その結果、これだけ多種多様な仕事を経験してきた人間は、この業界にもそうはいないだろうという密かな自負もあるのですが…。

 50歳台前半までは、殆ど休日がない、仕事だけの生活でしたが、それだけ充実したものを感じられた生活でした。

 しかしバブル経済がはじけて以降、都市計画・まちづくりの仕事も大きく変化してきました。

 厳しい経済環境の中で、自治体の都市計画に割ける財源は急激に厳しくなるとともに、地方の人口の停滞・減少も顕在化し、都市計画の主要なテーマも、新しいまちづくりから、既成市街地の活性化、持続的成長(維持管理)等に移行してきました。都市計画の進め方も、それまでは、新しい地域づくりのアイデアやノウハウ、関係者の意識結集のための資料づくりと説得等が重要であったのですが、次第に、市民参加(合意形成)が重視されるようになりました。その後は、それだけが都市計画であるかのように扱われるようになって来たようです。
 今や建設業界は代表的な構造不況業種の一つになってしまいました。まちづくりの仕事も、創造的な仕事というよりは調整的な仕事の比重が多くなり、まちづくりの中心に立つべき行政も、厳しい財政枠と、市民参加の旗印の下で、決断力、実行力が極度に低下してきたように思います。

 そうした中でも「困ったときの平澤頼み」と、仕事の発注をしてくれるのは、私にとって大きな喜びですが、それは常に、期待以上の成果を出してきたからこそだと信じたいと思います。

 

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 しかし、業務の環境はいよいよ厳しさを増してきたようです。

 仕事そのものが少なく、発注金額も少なくなる中で、仕事が出てくるのは殆どが競争入札、せいぜい一部がプロポーザル方式(それも組織力や実績の評価を含むものが殆どです。ひどいのは、見積もり金額まで求める。)ということになってきました。
 すなわち、今や自治体の仕事はより良い成果を求めるものではなく、より安く仕事を受けてもらえる企業を求めるようになったのです。企業としては、営業力や組織力でそうした発注様態の変化に対応していくか、そうでなければ、殆どボランティアのような仕事をせざるを得なくなってしまったのです。

 そうした中、たまたま大学の話しをいただいたので、新たな可能性に賭けてみようと論文をまとめ始めたのですが、実際に行動し始めると、コンサルタントの守秘義務が論文作成に大きな制約になることがわかりました。もちろん、会社の経営にとってもそれは大きなマイナスでした。私にとってはすべきことが十分できない辛い時期でもありました。
#そんなさなか、大学内の状況も垣間見えてくると、自分でも何をしているのか?という気分にもなったものです。
#しかも、その話しも途中で立ち消えになってしまいました(^^ゞ。何たることか!やはり自分で覚悟したことでないと、実らないものだという教訓にはなりましたが…。

 

 結局、着手し始めた仕事でしたので、私なりに、出すあてもないまま論文をまとめ、一息ついて周囲を見回してみれば、会社を経営している仲間もいつの間にか、NPOとしても活動していた、などということが当たり前になってきました。
 大きく仕事が縮小する中で、都市計画業界をリードしている人々は、既に70歳に手が届こうという(あるいは既に超えてしまった)、昔からこの業界に関わっている大先輩の方々です。


 こんな状況にもいささか??を感じるようになってきました。

 

 そして、今ある仕事といえば、一方では東京一極集中を推し進め、中央の建設業界を助けるためとしか思えないような、殆ど意義を感じられない再開発。他方では、専門的な能力が求められる仕事というより、行政職員の仕事の作業手伝いや、市民会議等の運営のための雑務のようなことが殆どになってしまいました。

 私が充実感を抱いて取り組める仕事は、探してもなかなか見あたらなくなりましたし、仮にあったとしても、最早、私に委ねていただける可能性も殆どなくなったようです。

 2005年にはとうとう日本の人口も減少に転じました。
 明らかに時代が変わってしまったのです。

 

【個人として生きることに(58歳〜)】

 そんな環境の中で、私には、経営に苦労をしながら会社を維持していく必要性が感じられなくなってしまいました。今更、充足感の乏しい仕事をするために、NPOを開く気持ちにもなれませんでした。

 もちろん、思い悩むことが無かったわけではありませんが、これまで一応納得の行く仕事ができてきたことを考えれば、これから何年になるかわかりませんが、本意でない人生を送るより、この際会社を解散し、個人として新たな人生を考えながら再スタートをする方が、私にとって好ましい道であると思い定めたのです。

 

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 これまで、20年間、(株)ユーピーエムとしてお世話になってきた多くの方々には、解散の件、お詫びしたいと思います。そして同時に、これまでのご支援に深く感謝します。

 今後は、「個人・平澤」として、少し自由に生きていきたいと考えていますので、どこかで見かけるようなことがありましたら是非声をおかけ下さい。

 改めて、よろしくお願いします。

  

  2006年1月

  

 

 2006年4月から、ランドスケープの設計を業務とする(株)戸田芳樹風景計画のお手伝いをしています。

 これまでは私の業務に協力していただきましたが、今度は逆になりました。優秀な能力を持ち、かつ責任感のある頑張り屋の会社です。自信を持ってお薦めできます。


 私ともども心にかけていただければ幸せです。

  2007年1月